日本の歴史、教科書を読む前に読む本
part1 「日本に米作りが伝わった意味」
日本の歴史の流れをざっくりみてみましょう。細かい知識はまだ後で大丈夫です。覚えようとしなくてもよいです。大切なのは昔の人ってどんな生活をしていたんだろう、海外から伝わった物事って日本の生活にどのような影響を及ぼしたの? 貴族や武士っていつからいるの?そもそも幕府って何?朝廷と何が違うの?というようにいろんな疑問をもって読んでみると歴史の楽しさに気が付きますよ。
【大昔のくらし】
大昔、人々は狩や漁をして、その日を暮らしていました。
動物や魚・貝をガシガシ食べていました。
でも、生ものなので長期保管ができません。
そこで毎日毎日、狩りや漁に出かけなければなりません。
冬の寒いときや病気のときであっても。
マジ大変だわ…
ところが、救世主があらわれました。
それはお米です。
中国や朝鮮半島から米作りが伝わったのです。
なぜ、お米が救世主なのか。
それは、魚や貝とちがって、お米は倉庫で保管できるのです。
寒い冬やもしもの病気のときのために倉庫で保管ができるのです。
寒い冬や病気のとき、わざわざ獲物を探しに行かなくてもよいのです。
倉庫に行けば食料があるのです。
神降臨。
そして、このお米が世の中を歴史を動かし始めるのです。
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おそらく、君たちは弥生時代に米作りが伝わったことは知っていると思う。歴史の面白さは、その米作りはどのようにして伝わったのか、中国から船で人が来たのか、その場合に何語でコミュニケーションしたのか、米作りで今までの生活がどのように変わったのか?といろいろ想像してみることですよ。いろんなことを想像してみるといいですよ。そうすれば暗記なんかしなくても歴史はできるようになりますよ。
part2 「弥生時代、お米大好き編」
外国から米づくりが伝わり、日本社会の変化が始まります。
外国から文化などが伝わり日本社会が変化することはたくさんあります。
例えば、外国からポルトガル人が鉄砲を伝え、戦い方が刀から鉄砲に変わりましたね。
外国からペリーが来て、日本社会の変化が始まったのはまだ先の江戸時代。
外国からなんかスゲーもんが来て世の中が変わるのは今も同じ。
外国からスティーブ・ジョブズが来てiPhoneを伝え、社会は変化しましたね。
これからも外国から何か来て、社会は変化するのです。
外国から何かが伝わった場合に自分だったらどのように対応するか考えてみると面白いですね。例えば、アメリカからペリーが来ても、鎖国を続けたら日本はどのようになっていたでしょうか。アメリカと戦争になったでしょうか。
さて米づくりが伝わったという話に戻りましょう。
今から約2300年前に、中国や朝鮮半島から米づくりが伝わりました。
それまでは(旧石器、縄文時代ね)、狩りの生活だったので、獲物が良く見えるように高台に住んでいました。
が、米はたんぼで作りますよね。だから人々の住む場所は高台から低地へと移った。
また、狩りの生活だと、獲物を追っていろんな場所に移動する生活だったけど、米づくりだと移動する必要はないですね。一か所に定住する生活に変わったのではないかな。
そして、たんぼは一人で耕すのはタイヘンだから(当然、耕運機とかないから)、いくつかの家族が村をつくって定住したよ。
このように米づくりが伝わったことで、いろいろと生活が変化していくんだね。
食料としての鹿とかイノシシだと当時は冷蔵庫がないから腐ってしまうよね。長期保管が難しい。
でも米だと倉庫に長期で保管できるね。湿気で腐らないように床が地面から離れた倉庫だったね(高床式倉庫)。
このように保管ができるから、将来のことを考えて米をたくさん保管する人と保管しない人、米づくりが上手でたくさんの米を保管できる人、へたっぴで米があまりできない人が出てきたよ。
米がない人は米がある人に頭を下げて、米を下さいとお願いをしなきゃならないね。上下の身分ができたと考えられるね。
頭を下げたくない人は、米がある人から奪い取ることも考えられるね。
つまり争いごとも増えてきた。
そこで、自分の村を守るために、周囲に堀をめぐらせたよ。これを環濠集落というよ。敵が攻めてこないか確認するために巨大な物見やぐらも作ったよ。
このように米を求めて村同士で争いが行われるようになりました。
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このように米のおかげで食生活が安定した半面、貧富の差や争いごとも生まれました。ちなみに、おかずは何を食べていたのでしょうね。僕はカレーライスが好きなのですが、この弥生時代にカレーライスはあったのでしょうか?想像してみてね。
part3 「日本で最初のリモートワーカー、 卑弥呼」
弥生時代は、米という食料を求めて村同士で争いが始まりましたね。
村通しで争いがあるということは、争いに勝つため村のメンバーを統率指導するリーダーがいます。その人のことを豪族と呼びます。
強い村の豪族は弱い村を従えてどんどん大きくなっていきます。これがクニと呼ばれるものです。この強い豪族は王と呼ばれるようになりました。
この時代の日本(倭「わ」)には小さなクニがたくさんあったのでしょう。
3世紀の日本(倭)には30ほどのクニを従える邪馬台国というクニがありました。この国の王は女性で卑弥呼(ひみこ)と言います。
卑弥呼は中国(魏「ぎ」)に使いを送ったようです。中国の歴史の本(魏志倭人伝)に書いてあるのです。下のような感じで書いてあります。
【倭の国の王は、もともとは男だったんよ。そんでもって、クニ同士の戦いが続いてみんな疲れたから、相談して新しく女を王にしたとよ。その人の名前は卑弥呼というらしいね。この卑弥呼さん、うらないが得意で多くのファンがいたようだね。不思議な力を持っているようだと。だけんど、だけんど、女王になってからは、引きこもり状態。令和では引きこもりがいっぱいいるけど、卑弥呼さんはうーんと昔から引きこもりだけんね。そんで、卑弥呼さんは、女の召使1000人ほどに身の回りの世話をさせているんだよ。宮殿や、やぐらのまわりにはいつも兵士がいて守っとる。
卑弥呼ちゃんは、中国に使いを送りました。中国は卑弥呼ちゃんからプレゼントをもらいました。そのお返しに中国の皇帝は、卑弥呼ちゃんに称号を与えました。織物や銅の鏡も与えました。】
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まだ日本には文字がない時代だから、日本には弥生時代の文献がないんですね。それに対して中国にはすでに文字があって、日本に関する文献があるのです。それが魏志倭人伝です。
その中に日本のこと、卑弥呼のことが書いてあるのです。
日本から中国に行った人は、どのようにして中国語をマスターしたんでしょうね。語学学校に通ったのでしょうか?
また、どのような舟で中国に行ったのでしょうか。国際線フェリーで行ったのでしょうか?それとも飛行機でひとっ飛びでしょうか?考えてみると面白いですね。
卑弥呼女王、引きこもりながらもタンタンと仕事をこなす。日本で最初のリモートワーカーだったのです。
part4 「大和朝廷現る、朝廷?何それ」
村のリーダーは豪族となり、豪族でさらに強い者は王となりましたね。
それらの豪族や王のお墓が古墳です。
4~5世紀の頃のお話です。
古墳の写真を見ると立派なものがありますね。力の強かった豪族や王はお墓も立派なものにしたのですね。
古墳の中のひつぎには、鏡や玉・剣などが収められていたのよ。古墳の周りには、はにわが並べられとった。これはなんでだろうね。
鏡や玉は宝石みたいなものですね。死後の世界に宝石を持っていこうとしたのかな。
はにわは人や動物をかたどった土の焼き物なんだけど、ボディガードとしての役割かな、それとも死後寂しくならないようにかな。とりあえず言えることは、死んだらそれで終わりとは考えてはいなかったようだね。
古墳の話はこのくらいにして、
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村同士の争いで強い村はクニとなり、そんなこんな繰り返しているうちに近畿地方(大和地方)に、大きな力を持つ大和朝廷(大和政権ともいう)という政府がつくられました。
ここで初めて朝廷という言葉が出てきました。日本を動かす大きな力(政府)です。江戸時代が終わるまでこの朝廷という言葉は出てきます。
大和朝廷は九州地方から東北地方南部まで従えました。
大和朝廷の中心人物である王は大王(おおきみ)と呼ばれました(のちの天皇です)。
ちなみに、熊本県の古墳でワカタケル大王と刻まれた鉄刀が発見され、そこからはるか遠くの埼玉県の古墳でもワカタケル大王と刻まれた鉄剣が発見されました。これはつまり、ワカタケル大王の力が少なくとも熊本県から埼玉県に及んでいたことを表すのであります。
この頃から中国や朝鮮(二つ合わせて大陸と呼ぶこともある)との行き来が盛んになったとよ。大陸から日本に移住する人も多くなった。この人達を「渡来人」と呼びます。ひらがなで書くと「わたってきたひと」ですね。
今では考えられないかもしれないけど、この時代は、日本より大陸の方がう~んと栄えていたんだよね。日本よりいろいろと文化が進んでいたんだよ。
だから日本に移住した渡来人からは学ぶことがたくさんあったとよ。
たとえば、養蚕(ようさん)、機織り(はたおり)、建築・土木工事とか。
わたしたちが使っている漢字もこの時代に伝わったし、仏教もそう。
でも注意が必要なのは、渡来人が大陸から日本に来たのは、わざわざ日本に文化を伝えるためではないよね。そんなお人よしはいないでしょう。大陸から船で日本に来るのは命がけです。命を懸けてまで日本に来て、何が欲しかったのでしょうか?考えてみると面白いかも。
part5 「聖徳太子 推古天皇のヘルパーさん」
前回ちょろっと書いたのですが、大和朝廷の中心である王は、大王(おおきみと読みます)と呼ばれたのだけれど、その大王こそがのちの天皇です。
天皇の起源は古事記を読めば分かるのですが、とりあえず、ここでは大和朝廷の大王がのちの天皇になると考えてOKです。
そして推古天皇の時代の話です。6世紀頃。
推古天皇は女性です。そしてまだ幼かったので、推古天皇のおいっこである聖徳太子が天皇の政治を助けました。摂政という役職です。
聖徳太子の目標は天皇を中心とする政治のしくみを整えることです。
歴史の流れをみるとこの天皇を中心とする政治のしくみを作りたいという場面がたくさんでてきます。
たくさんの豪族がいて、てんでばらばらな世の中を一つの命令で全国を支配したいのです。中央集権体制とも言います。
そのために聖徳太子が行った代表的なことは次の二つです。
①十七条の憲法を定め、豪族が争いをやめ、天皇を中心とする政治にはげむように、役人としての心構えを説きました。
②豪族がその役人になるには、家柄ではなく能力のあることが必要としました。これは冠位十二階という制度です。
これらの政治のしくみを聖徳太子が一人でやるのは大変です。そこで豪族の蘇我氏に協力してもらいました。
聖徳太子は中国(隋)の進んだ政治や文化を取り入れるために使者を派遣しました。遣隋使、小野妹子です。おのののかではありません。
聖徳太子は人の和を大事にする仏教を深く信仰しました。豪族同士の争いがはげしかった時代であり、平和を欲していたのでしょうか。
また人の和を大事にする仏教を人々の間に広めようと、法隆寺を建てました。ちなみにこの法隆寺は、まだ奈良県いかるが町にあります。世界最古の木造建築として世界遺産に登録されています。
*ちなみに十七条の憲法ってこんな感じ⇩
第1条 人の和を第一にすること(みんな仲良くしろよ)
第2条 仏教をあつく信仰しなさい(仏教信じろよ)
第3条 天皇の命令は守ること(天皇が一番)
このように十七条の憲法って、あくまでも政治を行う役人の心構えを示したものであって、現代の憲法とは異なるとよ。
現代の憲法は一言でいうと権利章典です。つまり国民の権利を規定したものです。
例えば、表現の自由(21条)や居住移転の自由(22条)など。
そこんとこ注意ね。
次回は大化の改新。
part6 「大化の改新なんじゃそれ」
聖徳太子は天皇を中心とする政治のしくみを整えようと頑張りましたが、志半ばで死んでもうた。
朝廷では聖徳太子の仕事のパートナーだった豪族の蘇我氏の力が強くなったよ。
豪族の蘇我ちゃんは中国(唐)のまねをして中央集権の国家を作る目標を立てました。豪族の蘇我ちゃんを頂点にして命令が国のすみずみまで行きわたる社会を目指したのです。
なぜならそのころ、中国(唐)が強くなり、朝鮮(高句麗)を攻撃し日本も次は標的にならないかドキドキしていたからです。
つまり、蘇我ちゃんを頂点に一致団結して中国に対抗するために中央集権国家が必要だったのです。
このように日本の歴史は、中国や朝鮮の動きに影響するから必ずそこんとこを意識しなきゃならないのだよ。
そんでもって、豪族の蘇我ちゃんに反対する人達もいた。
それが中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)だ。
彼らは、あくまでも天皇を中心とする国づくりを目指していた。豪族の蘇我ちゃん中心じゃなくて。
まぁ天皇側にいる人だから当然よね。
そんでもって、中大兄皇子と中臣鎌足(かまたりと呼ぶ。かたまりではない)は、蘇我氏をぶっ倒したのです。645年です。
豪族の蘇我氏をぶっ倒したことだし、中大兄皇子と中臣鎌足は天皇を中心とする新しい国づくりを始めました。この政治改革を大化の改新と呼ぶとです。
その国づくりでやったこと
①それまで皇族や豪族が支配していた土地と人民を、国家が直接支配する。これを公地公民という。
②当然、国家の運営はカネがかかるので税の制度を整えた。すなわち、戸籍を作り、戸籍にもとづいて人民に田を割り当てて耕作をさせる。そっから収穫物をおさめさせる。
③都の有力な豪族は貴族として政治に参加。
④地方の豪族は、その地域を支配する。そうはいっても、都から派遣された国司という役人の命令にしたがうこと。
この政治改革を大化の改新と呼ぶのは、このとき初めて日本で「大化」という元号が使われるようになったからです。これも中国から学んだものですよ。
大化の改新で土地と人民が国のものとなったけど、これと似たようなことが、江戸時代が終わり明治時代になったときに行われています。江戸時代に大名が支配していた土地と人民を明治時代に国に返しました。これを版籍奉還と呼びます。
歴史は繰り返すのですね。
このようにして天皇中心の国家が作られていきました。
残るは法律(律令)の整備です。これは次回。
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part7 「律令国家?それ四字熟語?」
さて大化の改新で天皇を中心とした中央集権国家づくりが進められています。これは中央の命令が地方のすみずみまで行きわたることが目標です。
そのために法律を作りました。大宝元年(701年)のことです。
大宝律令という法律です。
「律令」とは今でいう法律のことです。
すなわち「律」とは刑法のこと。殺人罪とか窃盗罪ですね。
「令」とは行政法のこと。政治についてのきまりです。
律令に基づく政治を行う国家を律令国家というんだけど、今でいう法治国家のことだね(法律に基づく政治を行う国家)。
ちなみに日本は法治国家であり、憲法に基づく国家でもあるから立憲国家でもあるよ。
part8 「奈良の平城京80年 鹿が多い」
前回の続きから、大宝律令という法律が作られ、律令に基づく政治を行う国家=律令国家が出来ました。
ちなみにこの大宝律令って中国(唐)から学んだものです。当時の中国って超先進国だったから日本が学ぶことがとても多かったのです。
そんなこんなで、律令国家の新たな都として、奈良に平城京がつくられました。710年のことです。
中大兄皇子(天智天皇)が死んで、大海人皇子(天武天皇)も死んで、まぁいろいろあって聖武天皇の時代です。
聖武天皇が位(くらい)についたころ、奈良の都では伝染病が流行りました。貴族の反乱などもありました。世の中が乱れていたのですね。
コロナで大変な思いをしている私たちも、伝染病などが流行ったら不安な世の中になることは想像がつきますね。貴族の反乱はないけど、アメリカではblack lives matter運動(黒人の命も大切)が起こっており、大変な時代です。
聖武天皇のときも大変な時代だったのです。
そこで聖武天皇は、仏教の力で人々の不安をしずめて国を守ろうと考えました。何をしたかというと
・地方の国ごとに国分寺を建てました。
・奈良の都には東大寺を建てました。
・東大寺には大仏もつくりました。
ちなみにこの頃の農民のくらしは、というと
土地を耕して税を納めたり、役所や寺を建てたり、都の警備や九州を守る防人(さきもり)などの兵役につかされました。
要するに大工仕事をしたり、警備員をしたり、軍人であったりホント大変でした。だから土地から逃げ出す人もいました。
農民がホント大変だったことは、人々の歌を集めた「万葉集」の中の貧窮問答歌から知ることができます。山上憶良(やまのうえのおくら)という人がよんだ歌です。
ちなみに税には租・調・庸の3種類ありました。
租→稲の収穫の3%を納める税。その年の収穫量によって実際に納める稲の量は変動しますね。たくさんの収穫があれば、3%でもかなりの量ですよね。
調→地方の特産物を納める税。今の北海道だとホッケ、カニとかになるね。
庸→麻の布を納める(都で働く代わりに)
こりゃ大変だわ。米を納めて、魚も納めて、布も納める。どんだけ持っていくんだよ!
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この時代の中国(唐)はとても発展していました。
そこで朝廷(聖武天皇)は、唐に使節や留学生を送って、唐の政治や文化を学ばせたんよ。逆に唐から人が来たりして、物や人の交流が増えてきたよ。
唐から伝わった物なんかは正倉院に大切に保管された。
唐の僧も来たよ。鑑真という人なんだけど、奈良の都に唐招提寺という寺を建てました。
このように中国(唐)と人の行き来があるから、外国人に日本という国について説明しなきゃならない状況があるんだよね。そこで朝廷は「古事記」や「日本書紀」という歴史の本をつくって日本の成り立ちを記したのです。
キリスト教やユダヤ教でいう旧約聖書みたいなもんです。
はい今日はここまで。修学旅行で奈良県に行く人も多いと思いますが、それはこの平城京の文化を見て学ぶためだったのですね!鹿を見ることが目的だと思っとったわ。わし。
part9 「いい加減に平安が欲しいよ平安時代」
前回の続き。
奈良の平城京のときは世の中の不安をしずめようと聖武天皇が、なんやかんやと頑張りました。
だけんども、都では貴族や僧の権力争いが起こりました。
地方では、国司や郡司が不正を行ったりして、まぁ政治が乱れたのです。聖武天皇の努力もあったが、やはり世の中の不安はしずまらなかった。
そこで、聖武天皇の後の人なんだけど、桓武天皇は京都に平安京を作って、新しい都で政治を立て直そうとしました。平安時代の始まりです。約400年続きます。ながっ!(ちなみに奈良は80年でした。)
平安時代といえば藤原氏。藤原氏というのは、あの大化の改新で活躍した中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫です。
朝廷では、藤原氏が力を強め、朝廷の重要な地位について政治の実権を握りました。
つまり、天皇が幼いときは摂政としての地位にあって、天皇が大人になったのちには関白という地位について、天皇のそばで政治を動かすようになったんです。これを摂関政治といいます。
こんな感じで藤原道長は、娘を天皇のきさきにして、マジで強い力を持つようになりました。
藤原氏みたいな位の高い貴族は、寝殿造りというデカイ屋敷でくらし、音楽を楽しんだり♬、宴会をしたり優雅な生活を送りました。うらやましー。
また、ひな祭りや七夕などの年中行事が行われるようになったとさ。
⇒ここんとこ北海道公立高校入試2021年度に出題されたど。
このころ、遣唐使が停止されました。菅原道真という人のアドバイスです。なんで停止したんだろ。中国から学ぶことが減ったのかな。それとも船で中国まで行くのは危険だからかな。
さて、遣唐使を停止した日本、それまでに取り入れた中国の文化を自由に作り変え、日本の風土や生活にあった文化を発達させました。国風文化といいます。
たとえば
①十二単(じゅうにひとえ)→衣類を何枚も重ねてきた女性の服装
②やまと絵→日本の風景や貴族の生活をえがいた。
③かな文字→漢字をもとにして作られた。おかげで多くの文学作品が生まれたよ。有名人は二人いて
紫式部→天皇のきさきに仕えた人で「源氏物語」という貴族のラブコメディーを書いた。
清少納言→この人も天皇のきさきに仕えた人。「枕草子」という随筆で自然の様子や自分の気持ちをあらわしたぜ(⇒ここんとこ北海道公立高校入試2021年度に出題されたど)。
こんな感じで平安時代は400年続きました。
次はついに武士が現れます。また時代が動きます。
part10 「キングオブ武士 源頼朝」
平安時代は、藤原氏などの貴族が力をもっていたね。
ところが、次第にサムライ(武士)も力をつけていった。彼らは幕府という政権を作った。日本には天皇側の朝廷だけでなく、武士側の幕府という政権が誕生したんだ。
朝廷がいろいろ重要なことを考えて、それを幕府が実行するみたいな感じ。
もっとも朝廷と幕府という大きな力が二つもあると、当然いざこざは起こる。朝廷と幕府の争いが起きる。最終的に幕府は江戸時代に力を朝廷に返して消滅する。
まぁそれはあとで説明するとして、とりあえず今は武士が登場したところからだね。
地方の有力な農民が武器を持ち、自分の土地を守る武士となっていきました。
特に勢いを持ったのが東日本(東国)の源氏と西日本(西国)の平氏。
天皇家や藤原氏の争い(保元の乱)が起こると、源氏や平氏はこれを武力で解決して急速に地位を高めたよ。
さらに天皇側で権力争い(平治の乱)が起こると、源氏と平氏は敵対して争いました。勝ったのは平氏の平清盛。
朝廷は、武士の平清盛を朝廷の最高の役職である太政大臣としたんだ。
すごい出世。今まで警備員やボディーガードだった武士が朝廷のお偉いさんになったんだから。武士が朝廷の内部に入り政治を行うようになったんだ。
でもまぁ、今までにないこのような事態に、武士や貴族の間に不満が高まったよ。平清盛なにそれ、武士のくせエラソーに。といった感じなのかな。
そんなこんなで、平治の乱で負けて、静岡県の伊豆に引きこもっていた源頼朝が平氏を倒す計画を立てた。東日本の北条氏と協力して。
そして源頼朝の弟君である義経が率いる源氏の軍が山口県の壇之浦で平氏を倒しました。
まだまだ源氏の勢いは止まりません。
なんと源頼朝は神奈川の鎌倉で政治を始めたのです。今まで政治をしていたのは朝廷です。平氏だって太政大臣という朝廷内部の役職で政治を行っていたにすぎないのにです。
源頼朝は、朝廷の許しを得て支配地に守護と地頭を置きました。
守護とは、国ごとに置かれ、軍事と警察の仕事をしました。
地頭とは、貴族の私有地などに置かれ、年貢の取り立てや、犯罪の取り締まりをした。
守護と地頭の仕事をしたのは、御家人と呼ばれる家来の武士です。
源頼朝の勢いはまだ続きます。
頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命されました。これは全国の武士の頂点ということです。武士のキングです。キングオブ武士。
源頼朝は武士のキングとなり鎌倉で政治を行いました。頼朝が始めたこの政府を鎌倉幕府といいます。
日本には、朝廷という大きな力とは別に幕府という大きな力が生まれました。
生まれたての幕府はまだ朝廷におとなしく従う立場だけど、力をつけるにしがたい朝廷がうざったくなっていくのは何となく分かるのでは。
今日はここまで。
part11 「武士と幕府はご恩と奉公」
さて、今までは朝廷という大きな力が日本を動かしてきたのですが、もうひとつ幕府という大きな力が生まれました。
朝廷が天皇を中心とするのに対して、幕府は武士が中心となります。
幕府は武士に対して領地の所有を認めてくれました。てがらを上げると新しい領地をもらえました。これをご恩といいます。武士は嬉しいですよね。土地があれば耕して作物を作ったり、作物を売ってお金にしたり、屋敷を建てたり裕福になれます。
そして武士(御家人)は、いざというときは幕府のために戦いました。これを奉公といいます。
幕府と武士はこのようにご恩と奉公という形で信頼関係が保たれていました。逆に言うと、武士が幕府のためにがんばったのに、武士に領地をくれないと信頼関係がくずれて幕府はつぶれてしまうのです。このように土地を仲立ちにとして主従関係を結ぶ仕組みを封建制度といいます。
なんやかんやで源頼朝の死後、源氏の将軍は3代で絶えました。
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幕府は源頼朝の奥さんの北条政子と、その父ちゃんの北条時政が中心となりました。北条氏は執権という将軍を助ける役職について幕府の政治を進めました。
ちなみにこのころ京都では後鳥羽上皇が院政を行っていました。院政とは天皇が地位をゆずって上皇となったのに政治を行うことです。天皇を辞めたんだから、裏でおとなしくしてればよいのに政治を行っているのです。今なら老害認定まちがいなし。
そんで後鳥羽上皇は、幕府の源氏の将軍が絶えたことをきっかけに、幕府を倒して朝廷の力を回復させようと考えました。1221(承久3)年、兵を起こしました。
北条政子を中心とする幕府は、東国の御家人(武士)たちを結集し、上皇の軍を破りました。これを承久の乱と言います。この結果、鎌倉幕府の力は西国にも広まりました。具体的には⇩
・幕府は後鳥羽上皇らを島根県の隠岐(おき)に追放
・朝廷の監視のため、京都に六波羅探題を設置
・上皇に味方した公家や西国の武士の土地を没収
・東国の御家人をその土地の地頭に任命
このように幕府の力が西国まで広がると、御家人と荘園領主の間で、領地をめぐる争いが増えました。
そこで執権の北条泰時は、御成敗式目を定めました。
これは御家人たちが土地の争いの解決を幕府に訴えてきたとき、裁判を公平に行うための基準です。
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ちなみにこのころの武士のくらしなんですが、ふだんは自分の領地に住み、戦いに備えて武芸にはげみました。戦いがないときは、鎌倉や京都を守る役目を果たしました。
農民のくらしといえば、二毛作が広がったことがあげられます。稲のあとに麦を植えました。また商業も盛んになって、商品と取引する市(定期市)が各地で決まった日に開かれました。
次回は鎌倉幕府が滅びます。幕府と武士の間の信頼関係がくずれてしまったようです。その原因である元寇についても話しますね。
part12 「鎌倉幕府と元寇」
日本が鎌倉時代にあたるとき、中国では元が力を持っていました。モンゴル人によって中国は支配されていたのです。
元は高麗(今の韓国)を従えていました。
次は日本を従えようと調子に乗って、幕府に使者を送りました。幕府(執権の北条時宗)は激おこで拒否しました。
そこで1274(文永11)年、元と高麗(韓国)の連合軍は、九州の対馬・壱岐を襲いました。そして九州北部の博多湾に上陸。⇒ここんとこ北海道公立高校入試2021年出題
応戦した御家人たちに対し、元軍は火器を用いて集団で戦う、ばり強い人たちでした。戦い方が火と集団という点で斬新(ざんしん)。
しかし暴風雨の影響で元軍は退きました(文永の役)。日本ラッキー。
幕府は再度の侵攻に備え、御家人たちに命じて、博多湾の沿岸に石垣(防塁ぼうるいと読む)を築かせました。
そして7年後の1281(弘安4)年、こりずに元軍は大軍で攻めてきよった。
しかし、幕府軍の抵抗や防塁などにはばまれて上陸できませんでした。
さらに暴風雨の打撃を受けて退きました。またかい…(弘安の役)
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さて、武士(御家人)は奉公として元軍と戦ったのだから、ご恩として領地をもらうことを期待するのは当然です。しかし、土地をもらえず武士は幕府に不満を持ち、武士と幕府の信頼関係がくずれはじめました。
ここに目をつけるのが朝廷です。朝廷は幕府を倒すことを狙っています。
幕府に対して不満を持っていた後醍醐天皇は、幕府を倒し政治の実権を朝廷に取り戻そうと兵を起こしました。
楠木正成(くすのきまさしげ)等の新興の武士や、有力な御家人の足利尊氏や新田義貞らを味方につけ、ついに鎌倉幕府を滅ぼしました。1333年のことです。
鎌倉幕府よ、さようなら。
次は足利尊氏の室町幕府に入ります。
part13 「 鎌倉幕府が滅んで南北朝時代へ」
後醍醐天皇と武士の足利尊氏は鎌倉幕府を滅ぼしましたね。
そんでもって、後醍醐天皇は年号を建武と改め、新しい政治を始めました。これを建武の新政といいます。
しかし、天皇側の公家だけを重んじ、それまでのやり方をすべて変えてしまうような天皇中心の政治は、次第に人々の不満を生むようになった。
特に武士たちは、幕府との戦いのごほうびをあまりもらえなかった不公平感から反発を強めて、武家政治の復活を望むようになったとさ。
そこで足利尊氏は
・後醍醐天皇を倒すため兵を起こした
・また京都に新たな天皇を立てた(北朝という)
・後醍醐天皇は奈良県吉野に逃れた(南朝という)
このように北朝と南朝という二つの朝廷が生まれました。
全国の武士たちは、京都の北朝と吉野の南朝の有利な方につき、領地を奪い合って戦いました。これを南北朝の内乱といい、60年近く続きました。
この時代を南北朝時代と言います。
次回は室町幕府の爆誕と南北朝時代の終わりと続くのです。
part14 「室町幕府誕生と守護大名」
足利尊氏は、北朝から征夷大将軍に任命され、京都に幕府を開きました。
京都の室町で政治を行ったことから室町幕府といいます。
ちなみに征夷大将軍とは、もともとは蝦夷を打つために東北地方に派遣された臨時の指揮官のことなんですが、ここでいう征夷大将軍とは全国の武士のリーダー的存在という意味でとても大きな力を持っています。
幕府は国ごとに任命した守護に対し、これまでの軍事・警察権だけでなく、荘園の年貢を半分得る権利なども認めたことから、地方の守護がしだいに力を強めていきました。
やがて守護は、国内の武士を家来として従え、国司に代わり、その国を自分の領地として支配するようになりました。このような守護を守護大名といいます。
前回、南北朝時代について説明しました。朝廷が北朝と南朝に分裂してしまいました。朝廷が二つに幕府が一つ。日本には3つの大きな政府が存在することになるのです。これでは世の中が混乱してしまいますね。政府が3つもあると、やることなすこと矛盾が生じてしまうことは明らかだし、だれの言うことを聞いてよいのか分かりませんね。
そこで、足利尊氏のお孫さんで、3代将軍となった足利義満は、勢力の衰えた南朝を北朝に合一させました。これでとりあえず一つの朝廷と一つの幕府という状態となりました。
さらに足利氏は朝廷が持っていたさまざまな権限を吸収し、政治の権限を幕府に集中させました。
鎌倉時代から続く公家の朝廷と武家の幕府という二つの政府の状態から、幕府中心へと導いたのです。朝廷は脇役みたいな。
次回は応仁の乱について話します。
part15 「応仁の乱 室町時代って複雑」
室町時代に応仁の乱が起こったことは何となく聞いたことがあると思います。
が、応仁の乱が何かと説明できる人っていますか?その人はすごい。
なかなか複雑なところなんですね。
シンプルに言うと、8代将軍の足利義政のときに、
①大名同士の争いや
②将軍の跡継ぎ問題(相続争い)が
複雑にからみあって京都で応仁の乱が始まったのです。
要するに、相続争いと大名同士の争いが結び付いたというわけです。
もう少し詳しく説明すると、
室町幕府内では、将軍や有力な守護大名らの争いが続いていました。
そして
①守護大名の山名氏と細川氏の争いに
②将軍家や管領家の相続争い が
結び付き、京都で応仁の乱が始まりました。1467(応仁元)年のことです。
この戦乱は、有力な武家を二分して10年あまりも続き、京都は焼け野原になりました。
①なぜ大名同士が争ったのか ②なぜ相続争いが起こったのか想像してみると面白いかもしれません。
もっと詳しく説明したいところですが、歴史の流れをとらえることを中心にしているので、残念ながら割愛(かつあい)します。興味がある人は調べてみると面白いですよ。
そんなこんなで争いが続いたこともあり室町幕府の力がおとろえてしまいました。
その反面、地方の武士や民衆が力を伸ばしました。
たとえば、京都の山城の国一揆では、武士や村民たちが団結して守護大名を追い出し、8年間、自治を行いました。
また、石川県の加賀では、一向宗(浄土真宗)の信者たちが団結して一向一揆を起こし、守護大名らを倒した後、100年近くも自治を続けました。
こんな感じで、下の者が上の者に実力で勝って、地位を奪うことを下剋上といいます。
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今回は応仁の乱について話しました。今までは、なんとなく聞いたことがある程度だったと思いますが、①大名同士の争いと②相続争いが結び付いたもので京都が焼け野原になった、ということが分かれば、ちょっとは頭の中がクリアになると思います。
part16 「室町時代と戦国大名の登場」
応仁の乱で幕府の力が弱まると、将軍の支配は京都周辺に限られました。
地方では、守護大名やその家臣の中から実力で頭角を現した戦国大名が支配するようになりました。
室町時代の後半、戦国大名たちが戦いを繰り広げた約100年間を、特に戦国時代といいます。
戦国大名で有名人は、武田信玄や織田信長、上杉謙信、今川義元などがいます。
戦国大名は、周りの大名との戦いに常に備えるため、領国の武士たちを家臣に組織して強力な軍団を作りました。
また、戦国大名は、大規模な治水やかんがいの工事を行って農業を盛んにし、鉱山の開発にも力を注いで領国を豊かにしていきました。、
さらに、戦国大名は城を築き、家臣や商工業者を集めて城下町を作りました。交通路も整備され、城下町は軍事や経済の中心として栄えました。
戦国大名のなかには、領国の統一した支配を強めるために、分国法と呼ばれる法律を独自に作る者もいました。下剋上を防ぎ、家臣を取り締まる決まりなどが定められていました。
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戦国時代は、あくまでも室町時代の一部です。室町時代の後半、大名の争いが盛んだったので、特に戦国時代と呼んでいるのです。
応仁の乱で幕府の力が弱まり、その反面、大名が力をつけてきたのですね。
なぜ応仁の乱が起こったのかは前回話したので、忘れた人は見なおしておきましょう。
part17 「室町幕府が滅んで安土桃山時代へ」
前回みたように、応仁の乱で幕府の力が弱まり、その反面、大名が力をつけてきましたね。
愛知県尾張の小さな大名であった織田信長は、静岡県駿河の大名の今川義元を破り、勢力を伸ばしていきました(桶狭間の戦い)。
織田信長は、京都に入り足利義昭を室町幕府の将軍にしました。
んだが、なんやかんやあって織田信長は足利義昭と対立しまして、義昭を京都から追放してしまいました。そんで室町幕府は滅びました。
そんで、いつものながれだと、織田信長は幕府を開いたとかの流れになるのですが、彼は幕府を開いていません。なんででしょうね。考えてみると面白いね。
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このころ、鉄砲が伝わりました。
種子島に流れ着いたポルトガル人が鉄砲を伝えたのです。1543年のことです。鉄砲の破壊力に驚いた当時の日本人はすぐに、大阪で鉄砲を大量生産しました。
織田信長は、この鉄砲を使って山梨県甲斐の武田勝頼を破りました(長篠の戦い、愛知県)。
織田信長は、滋賀県安土に全国統一の拠点として安土城を築きました。この時代を安土桃山時代といいます。もっとも幕府は開いておりません。
織田信長は、城下町で商人や職人が自由に営業できるようにしました(楽市楽座)。
また、滋賀県の延暦寺や一向宗などの仏教勢力と対立する一方、キリスト教を保護し、教会や学校を建てました。これはとても珍しい。なぜなら、キリスト教って、個人の人格をとても尊重し、自由や人権を大切にする宗教であり、当時のリーダーからはあまり好まれなかったからです。
当時のリーダーからしたら、必ず命令は守ってほしいのに、命令に従わない自由を主張される可能性があるからです。また、キリスト教のトップはキリストであって、武士や大名ではありません。こんな理由でキリスト教を排斥するリーダーが多いのにかかわらず、織田信長は、キリスト教を保護したのです。織田信長は、なぜキリスト教を保護したのでしょうか。
まず考えられるのは、貿易相手、すなわち取引相手が欧米人でありキリスト教なので、キリスト教を保護することで取引もスムーズにいく=儲かるということですね。
他には、織田信長がキリスト教という考え方が物珍しく、興味があった、とか、まぁいろいろ考えられますね。こういうところは自分なりに考えてみると面白いところですね。
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こんな織田信長ですが、毛利元就と戦っていた部下の羽柴秀吉(豊臣秀吉)を助けるために京都の本能寺に泊まっていました。そこで家来の明智光秀に襲われて、天下統一のなかばで自殺しました。
部下の羽柴秀吉は激おこです。次回に続きます。
あっそうそう、さきほど話したように1543年にポルトガル人が鉄砲を伝えました。鉄砲って人を殺す凶器ですよね。
そのたった6年後の1549年にスペインのフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えました。キリスト教って人を救う宗教ですよね。
人を殺す凶器が伝わった6年後の人を救う宗教が伝わっています。
ちなみに鉄砲を伝えたポルトガルとキリスト教を伝えたスペインって隣同士の国です。
part18 「織田信長のかたきを討った豊臣秀吉の時代」
織田信長は家来の明智光秀に襲われて、天下統一のなかばで自殺しました。
部下の豊臣秀吉(羽柴秀吉)は激おこでしたね。
激おこの豊臣秀吉は、すぐに明智光秀を倒し、信長の後継者となりました。
そして巨大な大阪城を築き、全国統一事業を進めました。
秀吉は朝廷から関白に任命されました。注意が必要です。
今までの歴史の流れだと、朝廷から「征夷大将軍」に任命されて、幕府を開く、というパターンでしたが、そうではありません。秀吉は朝廷から征夷大将軍に任命されていないし、幕府も開いていません。そもそも関白って朝廷から任命された天皇のヘルパーさんなので、秀吉も朝廷内部にいるようなもんです。
そんな感じで秀吉は天皇のヘルパーさんなので、天下統一のためには、天皇の権威も利用して、大名同士の領土争いを禁じる命令を出しました。
そして、九州の島津氏を降伏させる。
関東の北条氏も滅ぼす。
そんでそんで東北地方(奥州)も服従させる。
これで天下統一実現。
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秀吉は幕府を開いていません。
幕府って、武士に領地の所有を認めたり等、武士の権限が大きいですね。
これに対して、秀吉は天皇のヘルパーさんとなり中央集権を目指しました。すわなち権力を中央に集めて、自分の命令一つで全国が動くようにしたのです。そのためにやったことで有名なことは
検地と刀狩りの二つです。
検地☞家来を全国に派遣し、同じ長さのものさしで全国の田畑の面積を調べ、田畑の良しあしや実際に耕作している人物を登録させ、収入を確かなものにしました。
刀狩り☞百姓が武器をとって反抗できないようにするために、刀や鉄砲を取り上げる刀狩り令をだしました。
このような検地と刀狩りにより、武士と百姓・町人(商人や職人)の身分が区別されました。武士と町人は城下町に住み、百姓は農村や漁村で仕事に専念することになりました。
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秀吉は天下統一を実現しましたね。
そんで、調子に乗って、中国の明やインドなども征服する計画をたてたのです。そのため、朝鮮に服従と協力を求めました。
んが、拒否されたので、約15万もの大軍を朝鮮に送りました。
日本軍は加藤清正と小西行長が率いました。
首都のソウル(漢城)を占領しました。
だけんども、民衆の抵抗(義兵という)や水軍の抵抗(リーダーは李舜臣)、中国の明の援軍による反撃にあいました。
なんやかんやでトップの秀吉の病死をきっかけに全軍が引き上げました。
7年にわたる戦いで、朝鮮の土地は荒れました。多くの朝鮮人が日本に連れてこられました(そんとき有田焼が伝わりました)。
日本でも戦費などの重い負担に武士や民衆が苦しみました。大名の不満も高まり、豊臣政権の没落の要因となりました。
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秀吉は、朝廷から征夷大将軍に任命されていないし、幕府も開いていません。
朝廷から関白という身分を任命された天皇のヘルパーさんです。
そして、織田信長はキリスト教を認めたのに対して、豊臣秀吉はキリスト教を認めていません。
というのは、長崎が教会領としてキリスト教のイエズス会に寄進されていたのです(寄進とはプレゼントみたいなもん)。これを知った秀吉はキリスト教が全国統一の妨げとなると考えたのです。そして宣教師を国外追放しました。
キリスト教は禁止しましたが、貿易は行われました。宗教はダメだけど、カネは欲しいということです。江戸時代の鎖国との違うところです。
次回はいよいよ徳川家の時代の幕開けです。
part19「江戸時代、幕藩体制とは?」
朝鮮出兵の途中で、豊臣秀吉は死んでしましました。
次に登場するのが徳川家康です。
愛知県三河の大名であった徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉の全国統一を助けながら、有力な大名に成長しました。
彼は秀吉の命令で愛知県から関東地方に移り、江戸(東京)に城を築き勢力を強めました。
秀吉の死後、岐阜県の関ヶ原の戦いで自分に反対する大名を破り、全国支配を固めていきました。
徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。
征夷大将軍とは全国の武士のリーダーということです。
ちなみに豊臣秀吉は朝廷から征夷大将軍ではなく、関白に任命されましたね。ここんとこ注意です。関白は天皇のヘルパーさんみたいな。
なんで朝廷は徳川家康を関白ではなく、征夷大将軍にしたのでしょうか?考えてみ。
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ちなみに、大名とは、将軍にしたがい、1万石以上の領地を与えられた武士です。
大名のポイントは
①将軍に忠誠を誓うこと
②1万石以上の領地を与えられた
③武士
ということです。
ちなみに、1万石ってどんくらいの広さかというと
1石が、一年に一人の大人が食べる米の量を収穫できるだけの土地の広さを言います。とすると、1万石とは一万人の大人が食べる米の量を収穫できるだけの土地の広さをいいます。
とりあえず、めっちゃ広いと考えてください。
大名と呼ばれる人は武士のなかでも、特にたくさんの領地を幕府から与えられた人ってことですね。そんだけ幕府に貢献したんだね。
このような大名は、領地の中に住んでいる人たち(民衆)を部下(家臣)に支配させました。
この領地と支配のしくみを藩といいます。
そんでもって、幕府と藩が全国の土地と民衆を支配するしくみを幕藩体制といいます。
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幕府は大名を以下の3つに分けました。
①親藩
徳川氏の一族、まぁ身内だから信頼できっかな
②譜代
昔からの部下(家臣)、昔からの部下だから、結構信頼できるかね
③外様
関ヶ原の戦いで徳川氏が有名になってからの部下、最近部下になったばかりだし、心からは信頼できるわけではない、裏切る可能性大。
なぜ大名を3つに分けたかというと、信頼できる親藩と譜代は自分がいる江戸の近くに配置し、まだそこまで信頼できない外様は自分から遠くに配置するためです。
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さて、長い江戸時代が始まりました。1603年から1867年の大政奉還まで続きます。264年間です。長い。江戸時代に生まれ育った人は、江戸時代が永遠に続くと感じていたでしょう。
当たり前ですが、江戸時代にも、いろんな人の人生があったのです。教科書で勉強していると、試験用に知識を入れるだけになり、実際に江戸時代にいろんな人の人生があったということを忘れてしまいます。歴史を好きになるコツって、その時代に生きた人の生活や人生を想像してみることだと思いますよ。
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part20「江戸幕府が、大名や朝廷をコントロールするんだよね」
豊臣家が滅び、徳川家康が征夷大将軍になって江戸に幕府を開きましたね。
征夷大将軍って武士のリーダーですが、いつ部下や朝廷から反逆にあうか分かりません。24時間、いつでも命を狙われる地位なんですよね。
だれもが一発逆転を狙っているのです。
そこで、幕府は、大名や朝廷を統制、すなわちコントロールするために以下のような政策を行いました。
①武家諸法度という法令を定めた
大名が守らなくてはならない決まりです。
たとえば、
・参勤交代すること
☞その意味は②で説明するよ
・大名同士で結婚するときは将軍の許可を得ること
☞政略結婚を防止
・城を修理する場合は届け出ること
☞勝手に城を強化して戦闘能力を上げてはならない
②参勤交代の制度を作った
これは3代将軍徳川家光のときに作られました。
どういう制度かというと、大名に対して、1年おきに江戸に滞在して江戸城を守る役割を命じ、その命令をきちんと守るために奥さんと子どもを江戸に住まわせるというもの。この制度がなぜ大名のコントロールにつながるかというと、
江戸での1年間の生活費や領地の往復費用は大名の自腹です。カネが吹っ飛びます、藩の財政が苦しくなり、大名は弱くなってしまいます。幕府にとって弱い方がコントロールしやすいのです。
③朝廷の統制
なんと幕府は、天皇と公家に対しても法令を定めました。これはすごいことですね。もともとは朝廷があっての幕府です。親分と子分みたいな感じ。その子分である幕府が親分の朝廷が守らなくてはならない決まりごとを作ったのです。親分の朝廷からすればふざけんな、と言いたいところでしょうが、
幕府の力が強くなっていたのですね。 この法令では、天皇の第一の仕事が学問であることを強調しています、幕府のことに口を出すなということですね。また朝廷を監視するため京都所司代という役職を作りました。hあ
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次回は、江戸幕府とキリスト教との関係に入ります。
part21「江戸幕府はなぜ鎖国政策をとったのか」
江戸時代といえば、鎖国ですね。
鎖国とは、
①日本人の海外への行き来が禁止され
②外国との貿易が禁止された
状態をいいます。
なぜ、日本人の海外への行き来が禁止され、外国との貿易が禁止されたのでしょうか。
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まず、徳川家康は、海外との貿易を積極的に行いました。日本でとれる銀や産物を海外に売ってもうけることができるからです。
貿易をすると、このようにもうけることができるのに、なぜわざわざ鎖国をするにいたったのでしょうか。
貿易が活発になり、海外への行き来が盛んになると、キリスト教の信者が増えました。純粋にキリスト教の教えに興味を持った人もいるだろうし、相手がキリスト教なので自分もキリスト教になったほうが、多くの取引ができると考えた人もいるでしょう。
家康は、貿易の利益のため、初めはキリスト教を黙認していました。
しかし、キリスト教はイエス・キリストを神様とし、幕府より尊い存在とするものです。幕府の教えよりキリストの教えを優先するのは当然です。
とすると、幕府の教えがキリストの教えに反する場合、幕府の支配に抵抗する者も出てきます。
幕府の支配に抵抗するものは、当然幕府にとって邪魔です。
そこで、幕府は
①キリスト教を禁じる禁教令を出しました。これにより宣教師を国外に追放し、キリシタンを弾圧しました。
②また、キリスト教の多いヨーロッパ船が来航する港を、長崎と平戸に制限しました。
③その後、家光は、禁教を強化するため、キリスト教の多いスペイン船の来航を禁止しました。
④そして、日本人がキリスト教に接し信者にならないように、日本人の海外への行き来を禁止しました。
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こんなわけで、幕府はキリスト教を警戒していたのですが、さらに、追い打ちをかける事件が発生しました。
つまり、
領民にキリスト教徒(キリシタン)が多かった長崎の島原と熊本の天草では、領主が重い年貢を領民に課し、キリシタンを厳しく弾圧していました。
そのため、天草四郎という少年をリーダーにして3万7千人の人々が一揆を起こし、4か月にわたって、幕府や藩の大軍と戦いました。
こんな大勢の人が、4か月もの長い間に幕府の軍と戦うことに、幕府はキリスト教に対して恐怖を感じました。
そこで幕府は、次のようなことを行いました。
①絵踏みでキリシタンを見つけ出す
②キリシタンなら仏教徒に改宗しなければならない
③仏教徒であることを寺院に証明させる
④キリシタンの多いポルトガル船の来航を禁止
⑤キリスト教を布教しないことを約束したオランダについては
商館を長崎の出島に移した
これらのより、貿易の相手はオランダと中国に限られました(中国はキリスト教ではない)。
このように、日本人の海外への行き来が禁止され、外国との貿易が制限された状態を鎖国と呼ぶのです。
🔶🔶🔶
このように江戸時代の鎖国は、キリスト教との関係で考えなければなりません。外国との貿易による利益は欲しいのですが、キリシタンによる幕府に対する反抗で幕府の力が弱まることを恐れたのですね。そこで、キリスト教を布教しないオランダと中国に限り貿易を許し、しかも幕府がきちんと監視できるように、貿易をする地も長崎の出島に制限されました。
part22「江戸時代の生活」
〇農業
新しい田んぼの開発が盛んに行われ、耕地面積は豊臣秀吉の頃の約2倍となりました。
なぜかというと、豊かな生活を望む百姓さんが耕地面積を頑張って増やしたということもあるし、年貢の増収を図る幕府や藩が積極的に田んぼの開発をしたからです。
年貢の増収を図る幕府に対し、百姓は年貢の引き下げなどを訴えて百姓一揆を起こしました。
大阪は幕府や藩の取り立てた年貢米や特産物が運び込まれ「天下の台所」と呼ばれる商業の中心地でした。
これに対し、江戸は「将軍のおひざもと」と呼ばれ、人口が100万人を超える大都市になりました。
〇ビジネス
有力な商人は百姓などを一か所に集めて分業で物を作りました。これをマニュファクチャといいます。日本語で言うと工場制手工業です。
一か所に集めて分業だから「工場制」です。
まだ機械を使わず手作りだから「手工業」です。
一か所に集めて分業し、機械で物を作るなら工場制機械工業です。
ちなみに、問屋さんが機械や材料を農家に貸し出し、布を織らせて農家にお賃金を支払うことを問屋制家内工業といいます。
この場合、一か所に集めて分業ではなく、農家さんが自分ちでやっているので「工場制」ではないですね、問屋から借りて家でやっているので「問屋制家内」です。
いよいよ次回は鎖国が終わります。
part23「鎖国終了のわけ、アヘン戦争」
江戸幕府は鎖国政策をとりました。つまり、日本人が海外に行ったり、海外と貿易することを禁止しました。1640年あたりです。それから200年くらい鎖国のもとで、そこそこ平和な時代が続きました。
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ところが、江戸幕府は鎖国をやめて開国することになります。
なんでだろう。なんでだろう(古い)。
ちょうどそのころ、中国でアヘン戦争というものがありました。
イギリスでは茶を飲む習慣が広まり、中国の清から大量の茶を輸入していました。
しかしイギリスの綿製品は中国では売れず、貿易は赤字でした。
そこでイギリスは麻薬(アヘン、インド製ね)を中国に密輸し、その代金の銀で茶を輸入しました。
アヘンは中国の上流社会にも広まり、害が深刻なものとなりました。
そこで中国はアヘンを厳しく取り締まりました。
これがきっかけとなりイギリスは中国と戦争を始めました、これがアヘン戦争です。
中国としてはたまったものじゃない。明らかイギリスが悪い。
ところが、中国はイギリスに負けてしまいました。
イギリス強し。
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幕府はこれを知り、欧米ってほんと怖いとプルプル震えました。
そこで幕府は鎖国をしていたのにもかかわらず、日本に来航する外国船には燃料や食料を与えるようになりました。こわいこわい。
そんなときにやってきたのが、あのアメリカ人のペリーです。
アメリカは日本を開国させることを考えていました。
なぜなら、アメリカの捕鯨船や中国との貿易船の寄港地として、日本の港が必要だったからです。
そこでアメリカはペリー(東インド艦隊司令長官)を、日本に派遣し、大統領の国書(手紙ね)を日本政府に渡すことにしました。
そして1853年、4隻の軍艦を率いて神奈川県沖(浦賀)に現れました。
軍艦というのがポイントです。戦う気マンマンです。
ビビった幕府は、軍艦の威力におされて大統領の国書を受け取り、来年の回答を約束しました。
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来年の回答を約束したのですが、アメリカは本当に1年後の1854年にやってきました。
幕府☞「うわっ、マジか、確かに来年って言ったけど、来年って気が向いたら、という意味でリアルに1年後という意味じゃないんだよ」
今度はペリーは軍艦7隻で来航しました。
幕府☞「おいおい、また軍艦だよ、ヤベー奴。しかも3隻増えとる。これ開国を拒否したら間違いなくやられるタイプ」
もう、幕府は後には引けません。日本政府お家芸の問題の先送りは死を意味します。
🔶🔶🔶
そこで幕府はペリーが上陸した横浜で交渉し、日米和親条約を締結しました。
この内容は簡単に言うと下の3つです。
①静岡県の下田と北海道の函館の2港を開く
②下田にはアメリカの領事が滞在する
③アメリカ船に燃料・食料・水を補給する
日本が200年ぶりに開国した瞬間です。
注意が必要なのは、この段階では開国はしたが、自由な貿易が許されたわけではないということです。自由な貿易のためには次の段階に登る必要があるのです。
part24「開国し、自由な貿易の実現と不平等条約」
さて、前回みたように、日米安保条約が結ばれて日本は開国しました。
が、日本とアメリカが貿易を行うことは決められていません。
そこで、アメリカ人のハリス(初代アメリカ総領事、下田にいた)は、堀田 正睦(老中という幕府では超偉い役職)に通商条約を結んで貿易を行うことを求めました。
幕府は通商条約を結ぶことについて朝廷の同意を得ようとしましたが、*ダメでした。
そこで、井伊直弼(大老という役職で幕府では将軍の次に偉い)は、朝廷の同意を得ずに、幕府の独断で日米修好通商条約を結びました。井伊直弼はアヘン戦争を聞いて、欧米の軍事力を恐れていたのです。
この条約により自由な貿易ができるようになりました。
港は、横浜・函館・長崎・新潟・神戸。
*なぜ朝廷は通商条約を結ぶことについて同意しなかったのでしょうかね。
要するになぜ、朝廷はアメリカと貿易をしたくなかったのでしょうか。アメリカと貿易をすることが何の不都合なんでしょうか。キリスト教を始め、世界からいろんな考え方が日本に入ってくると、朝廷の命令に庶民が従わなくなるとか、アメリカの商品が日本に入ってくると、日本の商品がないがしろにされる=日本市場が混乱する、とかいろいろあるんでしょう。こういうところは想像してみると良いですよ。想像すると忘れないから。暗記しようと思わなくてもストーリーを考えると頭に入ります。
🔶🔶🔶
そんで通商条約の話に戻ると…
この条約は次の2点で日本にとって不平等でした。
①治外法権を認める
外国人の犯罪はその国の領事が裁き、日本に裁判権がない。
例えば、アメリカ人が日本でドロボーしても日本の裁判所で裁判できない
②関税自主権がない
輸入品の関税率を決める権利が日本にはない
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これは日本という国にとってめっちゃ屈辱なのです。
その理由は…
国家権力は3つに分かれています。
国会・内閣・裁判所です。
①の治外法権を認めるということは、日本では裁判ができないことを意味します。これは、国家権力の一つである裁判所(司法権)を否定することになります。
②の関税自主権がないということは税を自由に決められないということです。税を決めるのは内閣の仕事です。つまり、関税自主権の否定は国家権力の一つである内閣(行政権)の否定です。
このように、日米修好通商条約は自由な貿易をするために必要なものですが、日本の国家権力の裁判所と内閣を否定するとても屈辱的なものだったのです。
なぜそ日本はそんな屈辱的な条約を結んだのか。
それは日本がまだとても軍事的にも経済的にも弱い国だったからです。
強い欧米に言いなり、なされるがままということです。
そこで、江戸時代が終わり、明治時代の日本政府の使命はこの屈辱的な不平等条約を改正することに向けられました。
part25 「開国の影響」
213年ほどの鎖国が終わり開国しました。
ちなみに、この213年の計算方法はというと、
①鎖国の始まりが、オランダ商館を長崎の出島に移したのが1641年
②鎖国の終わりが、日米和親条約を結んだ1854年。
③そんでもって、1854年ー1641年=213年
ということです。
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200年ほど引きこもりが続いて開国しました。200年ほどの日本人だけの生活が終わりを告げました。生活に外国の製品や外国人が入ってきます。
まぁ、新しいものや人が入ってきたら様々なトラブルがあるわけですな。
しかも、開国に関して幕府の独断でやってもーて朝廷の同意がないから、
「ほれ、みてみ、幕府ってダメダメだな、朝廷の言う通りじゃないか」
となるわけです。
ここんとこ説明しましょう。
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貿易港には外国人居留地がつくられました。外国人が住んだり商売をするところね。
ところがですね、民衆や下級武士は不満があったんですよ、どういうことかというと、それは⇩の3点を見てみ。
・外国からはとっても安くて質のよい綿織物や綿糸が入ってきました。
こうなると日本のものは買わずに外国のものを買いますよね、当然。日本のものは売れずに国内の生産地は大打撃です。商売あがったり。
・日本からは主に生糸が輸出されました。
んが、生産が追いつかず、国内では品不足になり、他の生活用品も含めて物価が爆上がりしました。モノの値段が上がったということね。
・日本の金貨が外国に持ち出されたため、物価が不安定になった。
要するに外国で金貨を買うより、日本で金貨を買うのが安かったのですね。
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ほらほら、外国が入ってきて、不安不満の社会になってきた。日本らしいね。
大名や武士や公家は、開国を幕府が独断でしたから、こんなことになったんじゃい、とブーブー言い始めました。朝廷の言うことをきかんかい、ということね。
そんで、開国を決めた大老の井伊直弼は、ブーブーうるさい大名や公家を処罰しました。
また、吉田松陰を死刑にしました。これらを安政の大獄といいます。
ちな、吉田松陰を死刑にしたのは、吉田君が、外国の勢力はうざい、
うざいから外国いらないと主張したからです(これを攘夷論という)。
安政の大獄は、いろんな人の反発があり、井伊直弼は茨城県水戸藩などの浪士らに暗殺されました(これを桜田門外の変という)。浪士ってボスのいない武士みたいなもんです。
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さた、開国を決めた井伊直弼がやられました。こうなると、外国うぜーからいらないと主張する攘夷論が活発になってきます。これは次回。
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part26 「尊王攘夷か公武合体策か」
開国で外国の製品や外国人が日本に入ってきて、物価の値上がり等で庶民や武士の不満が高まり、外国の勢力を退けようとする攘夷論が強くなってきました。
そういうわけで、下級武士が外国人をおそう事件があい次いで起こりました。
そんで欧米諸国は対抗手段として、居留地に軍隊を常駐させようと考えました。
これは日本の危機、植民地化の危機!ということで、外国勢力を排除する攘夷論に朝廷中心の社会を作ろうという尊王論が合わさって尊王攘夷運動が盛んになりました。
この中心となったのが、山口県の長州藩です。
長州藩は、外国船を砲撃し、朝廷に攘夷を働きかけました。しかし幕府に攻撃されたため、いったんは幕府にしたがうことにしました、シュン。
これに対し、鹿児島県の薩摩藩の考えは…朝廷(公)と幕府(武)の合体により、幕府の権威を回復させようとする政策を支持。これを公武合体策といいます。
公武合体のため、公明天皇の妹(和宮)を将軍徳川家茂の妻にしました。
朝廷中心でいくか(長州藩)、幕府中心でいくか(薩摩藩)。どっちがいいのかな。
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そんなこんなで、鹿児島の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する事件が起こりました(生麦事件)。
激おこのイギリスは鹿児島を砲撃しました(薩英戦争)。
また、長州藩は外国船を攻撃していたのですが、イギリス・アメリカ・フランス・オランダから反撃をくらいました。
ボコボコにやられた長州藩は、外国の勢力を退ける攘夷なんて無理ゲーと気づきました。そこで長州藩は、幕府を倒して、天皇中心の政権を作るという野望をもちました。
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薩摩と長州は外国と戦争をして、外国の強さと日本の弱さを理解しました。
そこで、薩摩と長州は、欧米の勢力に対抗できる政権を作ろうと同盟を結びました。薩長同盟です。いっしょに幕府倒そうみたいな感じ。
これは、みんな大好き坂本龍馬(高知県土佐藩)の仲立ちによります。
こんなかんじで、倒幕の危機を察知した幕府は、長州藩をもう一回攻撃しました。んが、長州藩はすでに西洋式の軍隊を身に着けており、幕府は苦戦しました。そんで14代将軍の徳川家茂の急死をきっかけに撤兵しました。
次は15代将軍徳川慶喜です。時代が動きます。
part27 「大政奉還と王政復古の大号令」
欧米にボコられた薩摩と長州は、幕府を倒して欧米に対抗できる強い政権を作るために仲間になりました(薩長同盟)。
そんで明治天皇が即位すると、、薩摩と長州を中心に倒幕を目指す動きが高まりました。
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これに対し、15代将軍徳川慶喜はフランスの助けのもと幕府の権威を立て直そうとしました。
こんな徳川慶喜をみた山内豊重は(土佐藩)、
「この空気感、いったん幕府という政権を手放した方がいいんじゃね、徳川君は新しい政権の中で力を出した方が人生やり直せていいんじゃね」
と提案しました。
徳川慶喜は、
「それもそうだな、いったん政権を朝廷に返して人生やり直しもありかも」
ということで、政権を朝廷に返しました(大政奉還)。
「もいっかい、新しい政権でがんばれそう」(よしのぶ)。
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ところがどっこい、とんでもないことが起こりました。
武力による倒幕をめざす勢力は、天皇中心の政治に戻すことを宣言し(王政復古の大号令)、新しい政府を作ったのですが、ですが、
徳川慶喜は新政府への参加が認められなかったのです!
「だまされた、ちくしょー」(よしのぶ)
新政府は徳川慶喜に、幕府の領地をすべて差し出すように命じられました。
260年あまり続いた江戸幕府終了(よしのぶ)。
part28「戊辰戦争」
徳川慶喜は、新政府でがんばれるから幕府の政権(政治を動かす力)を朝廷に返したのに、新政府への参加が拒否されてしまいました。
そこで、旧幕府軍(すでに政権を朝廷に返していており幕府は存在しないので、あくまでも旧幕府)は新政府軍と京都の鳥羽伏見で戦いました。
これで勝利した新政府軍は、自らを官軍とし、徳川慶喜を朝廷の敵として戦いを続けました。
そして、西郷隆盛(新政府軍)と勝海舟(旧幕府軍)の交渉によって、幕府の拠点である江戸城が新政府に明け渡され、江戸を占領しました。
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それでもまだ福島県の会津藩は新政府軍へ抵抗を続けました。
これを支持する東日本の諸藩(長岡藩など)は、奥羽列藩同盟を結成。
新政府軍はこれに攻撃。会津の若松城を攻め落とした。
また、函館の五稜郭に立てこもっていた旧幕府軍の榎本武揚も降伏。
結果、新政府軍のもと国内統一。
鳥羽伏見の戦いより後の一連の内戦を戊辰戦争といいます。
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幕府が政権を朝廷に返したのに、このような戦争が起こると、外国としては旧幕府と新政府のどちらを日本の正当な代表機関とすればよいのか分かりませんね。困ったものです。
そこで、戊辰戦争が始まると、新政府は、諸外国に対して、
①天皇を中心とする新政権が成立したこと
②これまで幕府が結んだ条約を受け継ぐこと
を通告しました。
要するに、外国に対し、幕府ではなく新政府が正当な日本の代表する国家権力だから新政府と取引してねと発表したのですね。
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part29「明治維新(1)五箇条の御誓文」
さて、前回みたように、戊辰戦争が始まると、新政府は外国に対し、混乱を避けるため、天皇を中心とする新政権が成立したことと、幕府が結んだ条約は新政府が引き継ぐことを通告しました。
・また、新政府の方針を外国や日本国民に示しました。これは五箇条の御誓文と言われるものです。これには下の5つのようなことが書いてあります。
①政治のことは会議を開いて、みんなの意見を聞いて決めようね。
②みんなが心を合わせて、国の政策を行おうね。
③みんなの志がかなえられるようにしようね。
④これまでの良くないしきたり(攘夷とか)を改めようね。
⑤新しい知識を世界から学んで、日本を栄えさせようね。
五箇条の御誓文とはこんな感じです。
・さらに、人心を一新するため、年号を明治と改めました。これに関して、天皇の在位中には一つの元号のみを用いるという一世一元の制を採用。
・そして、江戸を東京と改称。
・また、天皇が東京に移る。
・政府の役所も東京に集めた。
新政府はその後も様々な分野で改革を推し進め、それによって社会は大きく変化しました。
このような幕末から明治の初めにかけての一連の改革を明治維新といいます。
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